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現代社会史 1997年度夏期休暇課題小論文
「差別」という概念、「隔離」という装置

慶應義塾大学経済学部 吉岡有一郎

この夏、私は現代社会史という授業でこうして小論文を書くこととなったわけであるが、書き始めるまでに、その内容についていささか悩んだ。私はこの授業が好きで、毎回欠かさず出席している。だが、しかし。いつも同じテーマで進められる他の授業とは一味違い、毎回様々なテーマで語られるこの授業において、私はいったいその何処に興味を抱いているのだろう。そう思うと、良く分からなくなる。小論文についても、何を書いて良いのか見当がつかない。そこで悩んだ。そして思うことが一つあった。即ち、今までの様々なテーマは、もちろんとても一つにはまとめられないが、しかしその奥底に「大きな命題」が潜むように思ったのだ。どうにかその大きな命題(それは現代社会に根差す課題と言ってもいいだろう)に近づくのがこの小論文に与えられた使命かもしれない。ふとそう大それたことを考え、その目的にかなうためのテーマを、自分なりに選定してみた。そこで上がったのが、1997年6月30日に鈴木先生の取り上げられた「らい予防法と『他者』の問題」だった。「差別」を取り上げた授業に、あの時、私は動揺を覚えた。しかし、あれは何だったのだろうか。あの「動揺」に大きな命題が隠れているのかもしれない。そこでこれまで自身がその存在すら全く知らなかった「ハンセン病」について調べ、小論文にすることにした。今まで隠され、知ろうともしなかった真実に、あの時の動揺など比較にならぬほど大きな衝撃を受けるとは考えもしないで…。

上に挙げたように、私は今まで「ハンセン病」という病名を聞いたことがなかった。今から考えれば「無知」限りないことで申し訳ないが、実際私みたいな人々はこの世にたくさんいるはずだ。第一、そういうことを教える人、伝える人がいない。良くも悪くも脈々と生き続ける「過去のことは全て水に流す」日本の伝統は、考えた以上に恐ろしい。このハンセン病の問題でも、「過去」のことにしてしまおうという伝統が、我々の知らない間に行われていたのだ。事実、私みたいな「無知」で「無恥」な国民が大勢いることで、それは既に証明されてしまった。この、忘れるには犠牲の多すぎた問題で、そういう伝統による「二度目」の過ちを繰り返す事は絶対ならない。先日、我が「誇るべき」先輩であり現首相である方の手で内閣改造が行われた際に聞かれた、時の人の台詞「過ぎたるは及ばざるがごとし、『過去』の事は『水に流し』て…」。故事の意味すら満足に理解出来ない「ムチ」な閣僚(先日世論に押されて辞任したのが記憶に新しい)が、「これが現在も息づく日本の伝統だ」と胸を張って言い切るものならば、何としてでもその考えを我々は断ち切るべきであり、そうでもしなければ今までに苦しめられてきたハンセン病の人々に、顔すら上げられない。小論文を書くにあたってそんなことを痛感した。

今まで何度か書いてきたように、現在「ハンセン病」という病気がある。しかしどうやらこの病名は最近になってのものらしい。昔は「らい病」と言って人々は心から恐れ「区別」したそうだ。普通に考えれば何でもない、ただ病名を言い換えただけに過ぎないこの事実が、その裏に重大な問題を秘めていることを、我々はもっと気づかなければならない。

本当はもう「らい」という言葉を使うべきではない。使いたくない。だがその言葉の持つ本当の意味を考える上で、以後も使わなければならない。そこはどうか了承頂きたい。

昔、らい病は不治の病だった。しかも伝染病だ。確かに恐い病気だった。だが、別に隔離され差別されることはなかったのだ。1909年に「癩予防ニ関スル件」という法律が施行されるまでは。

法律が施行された直接の原因は、当時の日本の置かれた情勢だった。いわゆる文明開化によって、欧米諸国の仲間入りを果たすべき「文明国」日本にとって、未だに神社・仏閣の門前で多くのらい病患者が参詣者に物乞いをするという光景は、「国辱」以外の何物でもなかったのだ。欧米ではすでに過去の病気となっているらい病が、そのまま放置されているとあっては文明国として面目が立たない。

そういう思想に、1897年のベルリンの会議でらい病が伝染病であるという確認がされると、伝染病なら「患者の隔離」が必要だということになってしまうのはむしろ当然なのかもしれない。

かくて、らい病患者の隔離は始まったのだ。

以後、1943年に特効薬であるプロミンが発見されて、ハンセン病が不治の病から完治の病となってもなおずっと、文明国日本ではハンセン病患者が「らい」病患者として隔離され続けた。

法律も1931年に「癩予防法」、そして1953年には「らい予防法」と改正された。

しかしながらその内容は予防という名で患者の隔離を強制するものであり、去年1996年に「らい予防法の廃止に関する法律」が施行されるまで、約90年間も不当な隔離が続けられてきた。

ここで現在における科学的根拠から、ハンセン病という病気を振り返っておく。

・ハンセン病はらい菌によって引き起こされる慢性の細菌感染症である。
・らい菌の毒力は極めて弱く、ほとんどの人に対し病原性を持たない。
・よって人の体内にらい菌が進入し感染が成立しても、発病することは極めてまれである。
・従って感染と発病とは厳密に区別して考えるべきである。
・この病気で命取りになることはまずない
・だがこの病気は皮膚の他に末梢神経も侵して必ず知覚麻痺を起こすので、早期の診断・治療が必要である。
・ハンセン病の発生率は社会状態、経済状態の水準の向上に伴い、減少することが証明されている。
・ヨーロッパや日本に置いてハンセン病は既に終息したか、または終焉に向かっていると見られる。
・日本のここ数年間の新規患者登録数は年間10人前後にとどまっている。
・現在WHOの多剤併用療法でハンセン病は完治する病気となった。
・従って患者の強制隔離を講ずる必要性は全く「ない」。

以上に見た科学的根拠から、1956年に開かれたローマ会議決議(ハンセン病対策の世界的な流れを決めた会議)で既に、「らいに感染した患者に対し、どのような特別法規も設けず、結核など他の伝染病と同様に取り扱うこと。従って全ての差別法規は廃止さるべきこと。」とされているにも関わらず、無恥な日本は隔離政策を続けたのだ。

ここで気付くべき重要な問題は、この病気に関して、「患者」という存在がまるでないというところにある。

「隔離」の発端から一貫して、患者は「治癒すべき者」ではなく「排除される物」という思想で扱われてきた。即ち、「患者=悪」なのだ。らい病患者は日本中から消さねばならない対象として扱われてきたのだ。そこには最早ハンセン病という「病気」は存在しない。

ではこのような「隔離」のシステムはいったいどう形成され、維持されてきたのか。何故、かくもハンセン病がここまで忌み嫌われてきたのか。

その理由としてまずはハンセン病の持つ特殊な病状が考えられる。

この病気に罹ると、手や足に変形と機能障害が生じ、体の一部分が欠けたり(脱肉と呼ばれる)、眉毛や頭髪が抜けたりする。つまり一見して「ハンセン病」と分かる容姿になってしまう。

人々が患者を見た時に、その見た目の違いが、自分達とは「違う」という「区別」を生む。その区別は自己の「正常さ、正当さ」を強く浮き彫りにする。そのある種自己防衛的な本能ともいえる感情が、自己とは区別したものへの、即ち他者への「恐怖」となって現れる。授業でも触れられた「他者と病気の文化理論」がハンセン病でも働いた、と考えられる。菌の種類では兄弟とも言われる結核病がそれほどまでに忌み嫌われなかったのは、この「見た目の恐怖」というものが存在しなかったことも理由として考えられるだろう。

この見た目の恐怖というのは正直に言って私にも日常で感じられることがある。例えば街で見かける身体障害者、特に知能障害者に対して私自身も本能的にそれを感じてしまう。「近づけば何かされるんじゃないか」、恐怖とまでは言わずともそんな不安が、ないといえば嘘になる。頭で「差別」するのはいけないと分かっているのに、心の何処かに「関わりたくない」と、自己と「区別」している部分がある。そうした一抹の不安感・恐怖感が、総合的に差別の概念を作り出している要因であるのは否定できない。また付け加えると、自らハンセン病を患った森元美恵子さんも初めて病室に入った時「同じ病室の患者が恐かった」と後に証言している。

だがしかし、「隔離」という装置にそれだけの理由では考慮が足りない。その一例に、「恐怖」だけでは説明のつかないほど、らい病患者の隔離に執念を燃やした一人の男がいた。

光田健輔(1876〜1964)。国立長島愛生園の初代園長から全生病院長を務め、「救らいの父」として第一回文化勲章を受賞した医師である。らい病患者を激減させ輝かしい成果を遂げたと、最近まで世間で褒め称えられたこの医師は、実際には狂信的な民族主義者に他ならなかった。終身隔離とワゼクトミー(精管切断手術による断種)によって、らい病患者とその子孫の全てを地上から抹殺することに一生を捧げた人物である。「光田イズム」と患者に恐れられたその強制隔離対策は、患者の後ろを消毒液をまいて歩くほどの徹底的なものだった。

この光田イズムは、光田の死以後もそれを信奉する医師が一線を退くまで、即ち「らい予防法廃止」に至るまで、患者を気の遠くなる時間、不当に苦しめた。

では医師とはとても言いがたいほどのこの狂信ぶりは、いったい何によるものなのだろうか。

完治の病でありさらには伝染病である(即ち遺伝病ではない)ことを知りながら、ここまで患者そのものの根絶を望んだ理由というのは何処にあるのか。

それは愚かな「民族主義」に他ならない。医師ともあろうものがその客観的科学的観測を持たずして抱いた「排除」の感情、見た目の恐怖から次第に膨らんだ、病気や患者などの理念を一切超えた「純粋(注:下線部は原文で傍点打ち)な恐怖」、患者即ち「悪」としての位置づけが、「隔離」を強行・維持するシステムの土壌を成している。「悪」は「善である我々(=大和民族)」とは「違う」。だから我々から「排除」しなければならない。我々は善でなくてはならない。我々を守るために悪は抹殺されるべきだ。治療を名義に隔離を図る、その哀しき自己主張、民族主義・優生主義が療養所という名の罪人収容所を作り上げた。それは、(患者に対して)より強制力の強い法律を求め、断種をしなければ結婚を認めず、「らい病」という名を「ハンセン氏病(当初はハンゼン氏病やハンセン氏病と呼ぶよう患者は求めた)」と変えるなど子供みたい(に馬鹿げているよう)な話だと言ってのける、光田の言動からも良く分かる。

また、日本の植民地下におけるハンセン病患者も、1943年のナウル島での患者39人虐殺という氷山の一角を見て明らかなように、「悪」以外の何物でもなかった。

「救らいの父」光田にとって、らいは「救う」どころか「救いようもない悪」でしかなかったのだ。

今まで見てきた「隔離」という装置には、もう一つ巧妙な手口が潜んでいる。つまり、「大衆扇動」だ。

まず初めに扇動の主となったのは「皇室」だった。

1322年、鎌倉時代に書かれた『元亨釈書』などに記されたある故事がある。それは光明天皇がハンセン病患者の膿を吸うと、患者は如来となったというものだ。この高貴な皇后がハンセン病患者をいたわるという構図は、近代になって皇室の「仁慈」の象徴として扱われ、貞明皇后節子や高松宮宣仁が光明天皇の役割を果たすようになった。即ち、節子の「下賜」による癩予防協会の設立や、隔離の必要性を国民に広く確信させるための講演会などの行事、宣仁の救らいのための藤楓協会の設立など、隔離政策を進める上で、皇室の「仁慈」が強調され、患者は「皇恩」に報いるためにも、国民・民族全体のことを考えて、隔離に甘んじなければならないという世論を確立していったのだ。

皇室の「仁慈」のためのキャンペーンとしての「隔離」の位置づけは、国民にも、また患者にとっても自らの存在を正しく、明確にするという巧妙な手段に他ならなかった。国民は患者を見つけ出し、「収容所」まで連行することが正義だったし、患者は「社会(そと、と読み隔離世界と区別する)」の名前を変え(ほとんどの患者が強制隔離後、本名を捨てたそうだ)、「壮健(社会の健常者をこう呼ぶ)」から脱却し、患者同士で助け合いながら「隔離世界の中」で生きていくことを強制され、正しいと信じ込まされた。近代日本に根差す「差別」の概念を、むしろその装置たる「隔離」を利用することで正当化するのが、皇室の「仁慈」だったのだ。

もう一つの扇動の主は「マスコミ」、特に「新聞」だ。

1964年5月16日付の朝日新聞天声人語欄は、14日に他界した光田健輔を「日本のシュバイツァー博士」と形容し、その功績を称えている。「親身な治療と予防対策のために一生を捧げた」と本文にある。この文章から、患者に消毒液を振り撒く光田の狂信ぶりを想像することは出来そうもない。

また同年同月15日付の毎日新聞の記事では、「収容所」、らい患者が家庭に「潜伏」、外国からの患者の「潜入」、患者達から「仇敵」とののしられ、あと半世紀で日本は「美しい国」になる、などという表現を含み、1960年1月11日読売新聞の記事に至っては、「野放しのライ患者」という見出しが躍る。世間の風潮だけに流され、それをあたかも真実かのように語るマスコミの扇動は、無知な国民にどれだけ「患者=悪」という感情を植え付けただろう。

さらには「宗教」までもが「らい」を利用した。

大乗仏教の重要経典である法華経の中には「前世において悪いことをした人が、この世においてらいとなる」とある。キリスト教などでも同じように「天刑病」として患者を差別した。ここでいう「らい」は既に病気などではなく、前世への「報い」であり、「悪」でしかないのだ。報いるべき人々という隔離装置を巧みに使って、教義を確立していた。

こうした約90年にも及ぶ差別・隔離を経た現在、漸くその過ちを正そうとする動きが実現し始めた。

菅直人元厚生大臣の近年まれに見る政治家の良心で「らい予防法」を廃止に追い込み、1996年1月18日、同法の放置を患者に謝罪したのだ。また同年4月5日には真宗大谷派がこれまで仏教教団として隔離政策を支える教化を行ってきたのは過ちだったと謝罪した。

あまりにも遅すぎた反省ではあるが、こうした大きな前進は大きく評価しなければならない。現在こうしてハンセン病が背負ってきた事実を省みることが出来るのも、こうした大きな前進があってこそだからだ。だがこうした反省がそのままで終わるのならば、それは何の意味も持たない。

以上に見てきたように、文明大国日本には忘れてはならない過去が存在する。それは一応の「けじめ」をつけるものの、未だ現代に巣くう病として生き続けている。

我々の中にも「らい病」と同じように「常識」として組み込まれている悪しき伝統、即ち「差別」という名の病である。患者という「建前」を、自らの肯定化のため(それは他者がいないと自己を確立できない、人間の正直で弱い心以外の何物でもない)だけに大衆を扇動し、加・被差別者の両方を息吹かせる−−悪だから排除という善の正義・悪だから奉公という悪の正義という実態の−−誰も気づきもしなかった「隔離」という残忍で巧妙な「装置」として置き換えてしまう病に他ならない。

他者の排除が同時に自己の防衛(即ちそれは存在)と置き換わる手段としての隔離は、今まで正義として捉えられてきた。それはある意味で正当であり、自己存在に欠かせない手段には違いない。だが意識する間もなく続けられた差別の悲劇が、もう一度繰り返されるほど馬鹿げた話もない。

リヒャルト・ヴァイツゼッカー元ドイツ大統領の東京講演で語られた一語が、参考文献にある。

「過去を否定する者は、過去を繰り返す危険を冒している。」

また、邑久光明園牧野正直園長の論文にもこうある。

「『救らいの旗印を掲げて患者の隔離を最善と信じ、そこに生涯をかけた人の思いまでを踏みにじる権利はない』、この考え方は一見正しいように見える。だが、この考え方は『ヒトラーだってナチス・ドイツを最善と思い、科学を大いに進めたのだからこの人の思いまでを踏みにじる権利はない』という論法と同じである。ではドイツ国民はヒトラーのやったことを是認し、批判をやめたのか。日本の政治家が『日本は朝鮮でも良いことをたくさんした』と繰り返すほど、ドイツ人は愚かでない。ヒトラーとナチスの横暴を許したことを、深く反省し、批判しあい、多数の加担者を処罰した。だからこそドイツ国民は国際社会で信用を取り戻しつつあるのだ。私たち日本人はこういった種類の批判は苦手であり、へたくそである。殊に身内のこととなるとなおさらだ。」

ドイツにも、授業で触れられたようにホロコーストという「過ち」が存在する。ホロコーストにも、らいに見えた残忍な隔離という装置が発動している。結局どこの国であれ人間である以上「差別」という概念は完全には捨て切れない。ただ、それを振り返って過ちを認めることが文明国日本に出来ないわけがない。らいだけにとどまらず731部隊など牧野園長の指摘どおり、「身内のこととなると」批判できない日本人の常識も、悪しき伝統として未だに生き続ける。

山本俊一東京大学名誉教授が指摘する、現代の「エイズ」が第二のらい病と成り得る危険性や、森元美代治多摩全生園入園者自治会長がことさら危惧する「いじめ」問題など、現代に巣くう病が露呈し始めている。見えない「隔離」という装置が標的を変え、起動し始めている。そこでは「エイズという病気」や「いじめられる原因」などは「建前」と成り果てるのだ。差別という概念は最早違うところで生息している。

そういう二度目の大過を繰り返そうとしている現在、我々は改めて「悪しき伝統」を意識していかなければならない。今まで見過ごしてきたその存在を見極める必要性がある。その際「科学的客観的」見地は強力なツールとなろう。

ここまで振り返ってみて、「同じように繰り返された人間の過ちを、水に流さないで見極める努力」こそが、捜し求めていた「大きな命題」に他ならないように思えた。

これからもその命題を追求するために「現代社会史」という授業に参加していきたい。

<参考文献>

証言・日本人の過ち
ハンセン病を生きて−−森元美代治・美恵子は語る
編著:藤田真一
発行:人間と歴史社

知っていますか?
ハンセン病と人権 一問一答
編:ハンセン病と人権を考える会
発行:解放出版社

「らい予防法」を問う
編:「らい」園の医療と人権を考える会
発行:明石書店