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21世紀を読み解く

ついに幕を開いた21世紀。

読売新聞夕刊文化欄では今月4日から5回にわたって「キーワードで読む21世紀」というコラムが連載された。

河合隼雄氏は多神論ならぬ「多心論」を、鷲田清一氏は「所有の彼方」 をといった具合に、各分野で活躍する5氏が自らキーワードを持ち出して新世紀を読み解くという内容だった。それぞれがそれぞれで大変興味深く、またそれなりの共感もできたわけだが、私としてはこの世紀をどのようなキーワードで読み解けるのだろうと、一人新聞に目をやりながら考えてみた。

先程の多心論ならば確かにこの「わたし」という存在の中にお互いを危ぶむいくつもの(一つではなく複数の)テリトリーを実感として感じることができるし、鷲田氏の言う、ただの物質的精神的所有だけで「わたし」を確認できなくなっている今の時代、も納得できる。

恐らく共通して言えるのは、問題がやはりこの「わたし」に絡んでいることであり、それは勘のいい人なら随分前からとっくに分かっていたことでもあるのだろう。

そして今20世紀から残されたこの宿題が、相当に根深いもので複雑系で答えを出そうと思ったら死ぬほど大変だからいっそのこと忘れてしまいたいけど忘れて生きていけるほど余裕もないことくらい、気付いているに違いない。

問題は「わたし」の傍にある。わたしというものがもっと確実で自立していればこれほど簡単なことはない。でも実際、わたしを自立させることが恐ろしく難儀であることを我々は知ってしまった。

個人の本当の自立を目指し、またそのための自由を手に入れようと人々は様々な分野、技術や文化や社会など、において革命を起こし続けてきた。しかしそうした発展を続けていくうちに、求めていたはずのわたしという自立から何故か離れていくこの矛盾した感情を、我々は20世紀を生きていくに従って経験してきた。

それは何かを失った感覚というよりは、もともと在り得なかったものを追いかけていた感覚にも似ていて、ちょっとした虚無感、ふとした諦観でもあった。個人の自立など、ほんとうは在り得ないことだったのか?

そんな時代のキーワード、というより今私が私の日常で特に必要としていることこそ、「ひとのむれ」であるように思う。在り得なかった答え を追い求めることに「わたし」を走らせるよりも、一見何にも関係なく 突拍子もないところに「わたし」を走らせてみたい。わたしの中にわたしを見つめるよりも、ひとのむれの中であらゆるわたしを見つけてみたい。ともするとわたしという一番傍で身近なところにあった(と思い込 んでいた)大きな問題が、ほんとうはわたしを含めたたくさんの「ひとのむれ」の中にこそあるのかもしれない。

わたしは「わたし」のことが一番好きだ。生まれながらにひとはわたしを大事に思っている。でもだからこそもう一度、そのわたしが生まれ落とされた「ひとのむれ」の中で暴れまわってみたい。21世紀を読み解くことはできないが、少なくとも20世紀の22年間、わたしを見つめてきた私の心境は、そんなところにある。

2001.01.13.