EVE Report Vol.01

2000/01/08 @472(19:20)

 

「個人のメディア」の到来
〜尊重される個、傷つけられる個〜

2000年。それまでは遠い未来だと感じられた時代。
しかし現にこの未知なる時代へ降り立った今痛切に感じるのは、直前まで我々が生きてきた、振り返るべき過去である。

飽き飽きするくらいに立て続けに起こる安易な犯罪。
立派な大人とされる人々は収賄、談合、隠滅、挙句の果てには猥褻行為を、そしてそれを見て純粋過ぎる子供たちは携帯電話をお守りにしながら時にナイフを振りかざし、いとも簡単に人を殺傷する。
高度成長後の平和な時代、だがしかし、「こころ」が病んでいると言われ続けた時代。
目に見える豊穣と引き換えに人々の「こころ」は戸惑い、虚ろとなる。
「こころ」を亡くした、時代。
2000年に引きずる長い影は、この過去にある。

ではこの影の周りに明るい光はあるのだろうか。
2000年になってもなお、勢いの衰えない明るい波がある。
それは、技術革新という波。
様々な新技術が、日進月歩ならぬ秒進分歩とも言うべき速度で生まれている。
数年前には予想だにしなかった新たな環境が、我々の前に当然の如く姿を現す。
特に情報技術、殊にパソコン、インターネット分野ではその傾向が著しい。
一般へのパソコンの普及、そして世界中を瞬時につなぐ媒体、ネットの到来。
最早、「仮想」現実と言われるほど、事態は甘くない。
人々はもう一つの新たな世界を手に入れたと言って良い。
それは誰もが好きなように情報を送受出来る世界。
全てが一様で、差別のない、まさに現代の希望と成り得る、新たな世界。

だがそんな世界を目の前にして、人々は新たな戸惑いを感じる。
この新たな環境を前に、個人はいったい何を為し得るべきなのだろうか。
前述した個人一人一人に生じているやっかいな「こころ」の揺らぎと相俟って、この自らの知性が創りだした大きな可能性が、同時に大きな壁となって立ちはだかっているのではないか。

2000年の曙である今こそ、この新たな光が現在に残してしまった影をどれだけ明るく照らして薄めることが出来るのか探ってみたい。

まずはその手助けとなる道標として、哲学者の中村雄二郎氏の考えを拝借したい。
氏は著書(※1)でこの新たな世界を、「情報ネットワーク社会」と言う歴史の一段階として捉える。
つまり今までの時代とこれからの時代は完全に一線を画するというわけだ。

では情報ネットワーク(ここではインターネットに代表される各種電子的情報網を指す)という新たなメディアは我々に何をもたらすのだろうか。
端的に言えばそれは、空間及び時間的制約からの開放、である。
今まではある意味、程よく規制のかかっていた「情報」が現実的制約から逃れて「自由」に、つまり何時にでも何処へでも瞬時に送受され、無制限に放出される。
例えば電子メールやウェブサイト(ホームページ)を考えれば分かる。
手紙のように配達に時間がかかるわけではない。
電話のように誰か相手がいなくてはいけないわけでない。
それは過ぎ行く20世紀の大革命の一つであるテレビの様に、我侭に傍若無人に己を主張する。
ただしテレビは一方通行だった。大衆には受信することしか出来なかった。
しかしこの情報ネットワークは送受そのどちらをも可能にしてしまう。
つまり「情報」が一人歩き出来るようになってしまったのだ。

その結果、情報はその自由さ故の無秩序の下、氾濫する。
実際、インターネット上では無数の情報が散乱している。
重要な情報もくだらない情報も、十把一からげにされている。
自由の名の下に生まれた新たなカオス(混沌)。
極めて困難ではあるが、しかしながら立ち向かわなければならない大きな課題だ。

その課題は後に譲るとして、少し見方を変えてみよう。
氏も言及しているが、ネットでは誰もが情報を送受出来るという点で「身体的な強さ」が直接的な意味を持たなくなる。
つまり年齢や性差、身体的障害などによる有利不利がこの新たな世界では意味をなくし、平等性のみが一段と力を増す。
しかしだからといって、このことが人間の「身体」そのものを否定する理由付けとはならない。
むしろネット社会においては意識的に身体を考える必要さえ生まれてくる。
それは身体がネット上において見えない(意味のない存在となる)分だけ、それをネット外社会、即ち人類が生まれてから連綿と続く肌と肌との触れ合いの社会、への「契機」とするために、そしてそれはこれまで以上の確固たる自己の確立のために必要不可欠であるからだ。

新たな社会が生まれたなら、今までの現実は捨て去れば良い、そんな考えも確かに浮かぶだろう。
しかしながらそうはならないというのが私の主張である。

情報が一人歩きをする世界では、その選別の為にもこれまで以上に「自己」の確立が求められる。
自己の存在を強く意識しなければ、嫌でも押し寄せる情報に対して、己が生きる為のアイデンティティ(自己同一性)は形成されない。
例えば海外にて外国人との文化や生活の差異を目の当たりにして、その時初めて自らが日本人だという自覚が生まれることがあるように、本当の国際人たるためにはまず日本人としてのアイデンティティが必要となることと近しい。
そしてそのためには、無形である「情報」に対して有形である「身体」がどうしても欠かせない手助けになるのである。

ではそのような情報ネットワーク社会における、自己の存り様を考えてみよう。
端的に言ってしまえば、情報の洪水たるネットの世界は「今まで以上の分業=本当の意味での協業」の世界であり、自己はその主人公となるだろう。

一人一人が専門の役割を果たして総じて効率的な社会的効果をあげる「分業」とは、例えばあなたは魚屋、あなたは農家というように個人に細かく職業を割り当て、共通価値である貨幣を通して、その両方ともが魚も米も食べられるという社会システムである。
人間誰しも一人で全てを賄えるはずがないわけであるから、この仕組みは至って当然の摂理である。
だがしかし、この仕組みも行き過ぎると弊害が出てくるわけだ。
それは分業によって割り当てられた、個のざわめき。
冒頭の「こころ」の揺らぎも決して無縁ではない。

これら弊害によって起きる人間による人間の支配から脱却するべく、社会的平等を謳ってマルクスは社会主義を唱えたわけで、またそれが様々な要因によって周知の様に失敗に終わったわけであるが、最近は金による資本主義一点張り精神もこの一度は破綻した理想理念によって再び真剣に叩かれつつある。

そこで私はさらに推し進めて、次なる情報ネットワーク社会こそ、社会主義の反省を無駄にせず未だ世を圧倒する資本主義一点張り精神を打破すべく構築される必要があると信じている。

ネットの世界は「本当の意味での協業」であると先に述べたが、詳しく言うならばそれは一人一人が共通の労働をすることで共通の利益を得るという幻想(マルクス流に言えば「単純協業」)ではなく、むしろ細分化され、個として自己を確立し尊重され傷つけあっている「協業(同「分業に基づく協業」)」であるということだ。

これは今までにない新たな世界なので例を挙げるのが難しいが、例えばTVゲームソフト「クーロンズ・ゲート(※2)」の世界に私はそれを見て取る。
この世界の人々は「海老剥き屋」であったり「義眼屋」であったり、何らかの(殊に不気味な)職に従事している。
だがそれらは決して無駄のない、各々が各々に対して意味のある必要不可欠な存在(もちろんTVゲームだから意味のない存在はありえないわけであるが)であり、そして興味深いのは互いに相対する存在として成立しているところである。
一人一人だけでは決して意味のない、意味不明な職業が気持ち悪いくらいたくさん存在している。
だが、彼らがいないと誰かしら(それにはゲームプレイヤーも含まれる)が困るわけだ。

即ちこの世界は、一人一人がまさに「協業」しているのであり、だがしかし個々の利益という(端的に言えばカネの)存在がなく、一人一人がいなければ世界そのものが成り立たない、つまり個人の自己が世界を、世界が個人の自己を互いに包容している。
「クーロンズ・ゲート」にはこのような無言で不気味な「協業」が、皮肉にも資本主義の無残な崩壊の果てとして描かれている。

私は「情報ネットワーク社会」においてもこのような意味での「協業」がこれから注目されるのだと思う。
それは先の中村氏の一番の指摘である、ネットでの主役たる「情報」の本質的に持つヴァルネラビリティー(可傷性、脆弱性)に理由がある。

本来、情報というものは得てして「希少性」を有するものである。
ある情報はそれが情報である故の価値を持つわけで、人はそれを占有することで「自己」としての確立への理由付けと為し得た。
よってある情報を他人に知られたくないために「競争」が起こるわけで、それはまた資本主義の行動原理の一因にもなっている。
つまりその意味で情報はヴァルネラブルなのであって、例えば情報ネットワーク社会で、情報は自分の外にいとも簡単に放出されることによって、自己から分離され、自己を自己足らしめる理由とはならなくなってしまう、何とも傷つきやすく脆く弱い存在である。
しかし、この「弱さ」は先の「クーロンズ・ゲート」の世界観に見たように、マルクスが夢に描いた「協業」に示唆されるように、「弱さ故の強さ」、しかもこれまでの強さとは質も量も違う「強さ」に転じる不思議な可能性を秘めている。

即ち、情報がヴァルネラブルたることは、それが(自己の証明にはならなくなってしまう)弱さ、(自己が庇うことの出来ない)攻撃されやすさ、(万人のモノとなってしまう)傷つきやすさであると同時に、それが「(相手の懐に潜んでその力を奪い取る余地を作ることの出来る)強さ」を持ち合わせる可能性でもあるのではなかろうか。
そしてこのヴァルネラブルな性質こそ、ネットには適合し、広がると考えられよう。

自らの他愛ない情報が、ネットというグローバルな他者との接点に置かれ、相手のものとして差し出され、批評され、活用されることで、相手に意義が認められ、それが自己への逆説的な価値をもたらすというわけだ。

例えば実際のネット上に存在する任意的集団である「メーリングリスト」という機構からも、如何に情報がヴァルネラブルたるかということを教えてくれる。
メーリングリストには、メンバーに特定の情報を送り出す「善意」と、メンバーがそれを受け入れる「権利」という2つの重要な協業的価値が存在している。
この情報の持つ2つの価値は極めてヴァルネラブルな性質で、だがしかしそれは特定の目的のために集まったメーリングリストメンバーにとって、何よりもの価値となっているではないか。

この視点は、従来の資本主義的思想では悉く排除され合理化されてきた、しかし個だけでは生きられない人類にとって根源的な思想でもある(ボランティア思想などはその典型的な例である)。

もしこの考えが情報ネットワーク社会にさらなる飛躍を遂げたとするならば、それはネットがヴァルネラブルなものとしての情報、ひいてはそれを産出する「個人」を受け入れることが出来る「新たな場」であることに他ならない。

まとめると、グローバルなネット上において、情報は無限に存在し、そこでは以前までの希少性だけでしか判断されなかった情報の価値なぞは幻想であるということだ。

むしろ情報、そしてそれを産出する個人は最初からヴァルネラブルであり、例えば従来ならば自己は企業に属しその歯車になるという「弱い」ままのアイデンティティしか得られなかったのに対し、「弱いままでのグローバルなネット化」の下では、自己は相変わらず「実質的な弱さ」(一人では何も意味をなさないという本質)なのにもかかわらず、「協業的な(私がいないとあなたが、あなたがいないと私が成り立たないという計り知れない)強さ」を持ち得る可能性こそ、今までの影を照らす光そのもののように、もっと大げさに言えば、破綻しつつある過度な資本主義と幻想に埋もれた社会主義の新たな統合の可能性のようにすら、私は感じている。

私がインターネットに「EVE」を開設する意図は、そんな可能性が何処まで実現できるのかを体験してみたいと思ったからである。

もし今私が述べたことが情報ネットワーク社会で実現するのなら、このヴァルネラブルな存在を如何に利用するかということが大事になってくるはずだ。
先ほど残した大きな課題、カオスと化したネット上で如何にヴァルネラブルな価値を見出せば良いのか、「EVE」ではこの点に絞って活動を続けていきたいと思っている。

このサイトに訪れた人に、全員とは言わない、たった一人にでも役に立ててもらえるものなら、少しでも提供した情報がヴァルネラブルに価値を持てたなら、それは「ただ弱かった」だけの一人が「強くなれた」瞬間であると思うのだ。
そして新たなる世界での生活が「楽しく豊かに」なると信じている。

2000.1.8.
よっしー(吉岡有一郎)

 

<参考資料>

※1
21世紀問題群ブックス1「21世紀問題群」
著者 中村雄二郎
発行所 株式会社岩波書店

byebye中村雄二郎のインターネット哲学アゴラ

※2
クーロンズ・ゲート(プレイステーション専用CD-ROM)
発売元 株式会社ソニー・ミュージックエンタテインメント

byebye是空(ZEQUE)

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