1999年 10月

 久しい時間

 嫌なことが続く。
 生きていくことを望むなら、試練として乗り切るくらいの忍耐が必要だ。
 しかし、それでもなお、耐え切れない時がある。
 突然の誘い。思いも寄らぬ、時間。
 自分ではコントロール出来ない、その時間が、秋風のように過ぎ去る。
 朝、抜けるような空の下。
 揺るぎ無い真実を、死ぬほど哀しい真実を、また一つ知った。

 1999.10.30.

 衝動

 友達から土産を頂く。
 遠く離れた異国の力。
 良くは分からないけど不思議な力。
 何より、もらった瞬間が嬉しかった。

 共通の問題を語り合う。
 目に見えない、目の前の問題。
 誰のためでもない、己のための。
 だが語り合える瞬間、それは見えるのだ。

 瞬間を生きる。生きるとは? 死ぬとは?
 内在する死を、見つめる男がいる。
 死へ向かって。衝動は走る。

 1999.10.22.

 流砂の遠近法

 私は新聞が好きである。
 朝目覚めたらまず、新聞を読まなければ気が済まない。
 世の中でうごめく鼓動を、それぞれの価値観で表現してくれる。
 言わば、たくさん入った玩具箱、である。
 その新聞の夕刊に、月に一度楽しみにしているエッセイがある。
 しかし先月来からその記事が見当たらない。
 どうしたのかな、と思っていたところに今日、また出会えた。
 私も身体を壊していたが、筆者もまた、入院していたとのこと。
 だが今日もまた、その繊細で私には高尚過ぎる、でも力強く共感出来る文脈は健在だった。
 筆者の文章は、きっと根底に何かが流れている。
 それを一言で言うとすると、どうなるのだろう。
 流れる血。生命の木。凍てつく氷。落ちる枯葉。湿る大地。
 それは、自然。
 それも、ありのままの鼓動とともに。
 この脆弱な肉体でしか感じられない生命の鼓動に。
 私はそんな文章に共感しているのだと思う。
 これからも、楽しみに。届かない言葉だけど、お身体にはお気をつけて。

 1999.10.20.

 きっかけ

 夏から崩していた体調が、漸く元の形を取り戻した。
 無論身体を壊すということは望ましくない出来事であるが、自らには「在るべき」事だったのかもしれない。
 己は精神的な面に関してだけ、他人より図太いと思っている。
 たがここ1年、それだけでは乗り切れなくなりそうなことが多々あった。
 周りの環境が、押し並べて荒立つ波達が、次々と避けようとも寄せてくる。
 掴まるべき支柱が無いわけでもなく、ただ拾おうともしない己に責務はあろうとも、何とかやり切れる気持ちが強かった。
 去年の夏は乗り切ったように思う。しかし、今夏は倒れた。
 身体とは魂と無関係ではなく、その摂理に立てついた無謀さと浅はかさだけが、身を駆け巡った。
 していないことを気付くこと、そしてその難しさが今、漸く。
 焦りは衝動の避難口で、決して、何にも気付いてはいないのだと。
 他人を通して己を見て、でも己しか見ていなくて他人を見ず。
 結局はそんな時に一つ、哀しいかなどうにもならない真実だけが見えたりもして、負けじとまた、誓う。

 1999.10.15.

 鏡

 全ては身の脆弱な魂を反射する偶像として。
 さすれど我は誰に己を請うべきか。
 見えぬ芯に触れぬ君は在る姿こそ欲せず。
 故に心慮する深遠な吾が語るのは誰ぞ。

 1999.10.10.

 喝

 感傷的な秋風と相俟って、道標を見失う。
 幻想の夢に現実の夢を重ねてまたしても、逃げるところだった。
 物事を見据えるという過酷さに、ただ逃げるだけ。
 どうせ一つしか出来ないのなら、その一つをやればいい。
 でもそれがどれだけ辛いことなのか、痛いほど知っているから。
 どうせ一つも出来ないのなら、その一つをやってみればいい。
 どうせこの長苦しい時なぞ、後から一言で片付けられてしまうのだから。
 喝は間一髪、間に合った。

 1999.10.5.

 プラチナ

 どうしても消えないもの。
 じわりと私に歩み寄る。
 「常」に流される日は、永遠にならない。
 また出会えた時に、きっと忘れ去られているだろうから。
 問題は現実というより、永遠でいられない幻想。
 もしかしたら、を許さない私、なぜならそれは、怖いから。
 過去への訣別。音を立てて崩れるということ。

 1999.10.3.

 

 

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